—笑いはコンテキスト操作でできている?
あるあるネタは、なぜ面白いのだろう。
「言われてみれば確かにそうだ」というだけなら、別に笑う必要はない。
英語を話す日本人のモノマネもそうだ。日本人の英語にはこういう癖がある、という感覚を私たちはなんとなく共有している。普段はわざわざ意識していない。それをモノマネとして目の前に出されると、「ああ、確かに」と急に輪郭が現れる。
笑いとは、単に面白い情報を受け取ったときに起きるものではなく、私たちの中にあるコンテキストが何らかの形で動かされたときに起きているのではないだろうか。
ここでいうコンテキストは、言葉の前後関係だけではない。
漫才なら「ボケたらツッコむ」。学校なら「先生はこう振る舞う」。RPGなら「序盤で王様に会う」。
そんな、文化的に共有されている「だいたいこういうもの」という前提まで含めて考えてみたい。
共有されたコンテキストから外す
オードリーの漫才は分かりやすい。
漫才では普通、ボケがおかしなことを言い、ツッコミがそれを正す。
ところが春日のツッコミがそもそも的外れで、それを若林がツッコみ直す。
ここでは発言の内容だけではなく、「ボケ→ツッコミ」という漫才そのものの形式を逆手に取っている。
観客が「ツッコミとはボケを正すものだ」と知っているからこそ、「ツッコミまでズレている」と分かる。
内村光良さんの「転ぶ人」が面白いのもこれに似ている。
日常ではアクシデントとして扱われる「転ぶ」という行為を芸として扱っている。
“何回も何回も転んでしまう人”という、日常のコンテキストから逸脱だけでなく、
“制御不可能なはずの動きがやたら制御されている”ということが笑いにつながっているのだろう。
突拍子もないコンテキストを学習する
一方で、文化的に共有されたルールを利用するのではなく、ネタの中で新しいルールを作ってしまう笑いもある。
世界のナベアツの、
「3の倍数と3のつく数字でアホになる」
がそうだ。
よく考えれば、とんでもなく突拍子もないルールである。
まず最初に、「なぜそんな条件でアホになるんだ」という世界の見方そのものがおかしい。
ところが少し見ていると、観客はそのルールを覚える。
すると次は、
「次は12と13が連続で来るな」
「30番台はどうするんだ」
と、観客自身がルールを使って先を読むようになる。
最初は突拍子もないコンテキストを知ること自体が笑いだった。
しかし一度それを学習すると、今度は、その学習したコンテキストが時系列の中でどう更新されていくのかが新しい笑いになる。
バカリズムの「都道府県を持つとしたら」も同じ構造に見える。
都道府県は普通、手で持つものではない。
ところが「都道府県を持つ」という前提を一度受け入れると、観客もそのルールの中で考え始める。
どの県なら持ちやすいのか。
どんな形だと扱いづらいのか。
最初に突拍子もないコンテキストを提示する。
観客がそれを学習する。
自分だったらこう持つと展開を予想する。
バカリズム自身の突拍子のなさがその予想を上回る。
ひとつのネタの中で、観客の「世界の見方」そのものが書き換えられている。
離れたコンテキストを接続する
別のタイプもある。
大喜利や一発ギャグでは、普段は離れたところにあるコンテキスト同士を突然つなぐことがある。
たとえば大喜利。
お題は、
「異世界転生した学校の先生、何をした?」
答えは、
「王様はトイレじゃありません!」
この答えには、いくつかの共有コンテキストが重なっている。
まず、
生徒「先生トイレ!」
先生「先生はトイレじゃありません!」
という、おなじみの学校でのやり取り。
そして、異世界転生ものに多い西洋ファンタジーの世界観。
さらに、そうしたRPGでは物語のかなり序盤で王様に挨拶する、という定番の流れ。
これらは普通、別々の場所にある。
ところが「先生はトイレじゃありません!」という型だけを取り出して、先生の部分を王様に差し替えると、一瞬でつながる。
聞く前には予想しにくい。
でも聞いたあとには、
「ああ、そこをつないだのか」
と分かる。
ちゅうえいの一発ギャグにも、このタイプが多い。
「飛んで飛んで……屯田兵!」
歌のフレーズと歴史用語が、音だけを橋に突然つながる。
「北斎の絵の波〜♪」も、先に意味の分からない動きがあり、あとから葛飾北斎の波という別のコンテキストにつながる。
「肘神様」なら、神事や伝統芸能らしい形式に崇めている対象は身体部位の「肘」であるくだらなさ、という形式と内容のギャップが生まれている。
まったく無関係なものを持ってくればいいわけではない。
近すぎれば意外ではない。
遠く離れているのに、どこか一ヶ所だけ橋が架かっている。
その橋を見つけた瞬間に笑っているのかもしれない。
誰がどのコンテキストを知っているか
コンテキストは、必ずしも登場人物全員で共有されている必要もない。
アンジャッシュのすれ違いコントでは、二人が別々の話をしている。
本人たちは会話が成立しているつもりなのに、観客だけが双方の事情を知っている。
だから観客には、
「いや、その二人、違う話をしてるぞ」
と分かる。
ドリフで、事情を知らない人物が水桶の水を飲んでしまうようなネタも同じである。
その水について事情を知っている人物がいる。
事情を知らずに飲む人物がいる。
そして観客は、その両方を知っている。
笑いは会話や動作そのものだけでなく、「誰が何を知っているのか」というコンテキストの配置からも生まれる。
一度共有したコンテキストは持ち越せる
コンテキストは、そのネタ一本の中だけで消えるとも限らない。
オードリーの「へへへ」のようなお決まりは、一度観客が知ってしまえば、次にネタを見るときにも持ち越される。
まだ何も起きていない段階でも、
「あ、来た」
となる。
NON STYLEのように、
「石田は井上をキモイと思っている」という二人のキャラクターや関係性。
それも観客に共有されれば、それも次のネタの前提になる。
落語でも同じようなことが起きる。
『寿限無』では、最初に観客が長い名前を知る。
切迫した状態で長い名前を叫び続けるという展開は、
前半で提示された寿限無の名前の長さの分だけ笑いを継続させることになる。
『時そば』では、前半で仕掛けを理解した観客がその知識を持ったまま、失敗例として反転した後半を見る。
一度共有された情報は、その後の笑いに使い回せる。
同じ映像を二度以上見ても笑えるのも、これに近い。
二回目は展開を知っているのだから、意外性だけなら減っているはずである。
それでも、
「前にここで笑った」
という記憶が、新しいコンテキストとして加わる。
笑いは、その瞬間に与えられた情報だけで完結していない。
過去の自分まで材料になる。
ネタの外側にもコンテキストがある
さらに考えると、笑いを左右するコンテキストはネタの中だけにもない。
「笑ってはいけない場所」で、どうでもいいことが妙に面白くなることがある。
葬式のような厳粛な場なら、普段なら流せる小さな物音や失敗でも、笑ってはいけないと思うほど気になってしまう。
『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』の「絶対に笑ってはいけない」シリーズは、それを企画のルールそのものにした。
「笑ってはいけない」
という前提がある。
だから仕掛けだけでなく、出演者が必死に笑いをこらえていることまで面白くなる。
一人が先に崩れる。
それにつられて別の人も崩れる。
以前効いた人物がまた出てくる。
ネタの外側にある禁止、罰、他人の反応、過去の記憶までが笑いに参加している。
「会場が暖まる」とは何か
劇場で「会場が暖まる」と言う。
これも、単に観客のテンションが上がったというだけではないのかもしれない。
観客は劇場に入った瞬間から、目の前のユーモアだけに集中しているわけではない。
仕事のことを考えているかもしれない。
移動中にスマホを見ていたかもしれない。
夕飯のことを考えているかもしれない。
頭の中には日常のノイズが残っている。
そこで前説が入る。
周囲から笑い声が聞こえる。
少しずつ注意が舞台へ向く。
日常生活を処理する状態から、目の前の言葉や動作、そのズレや接続を拾う状態へ移っていく。
周囲の人が笑っていること自体も、
「ここはいま、笑いを見る場所だ」
という外側のコンテキストになる。
「会場が暖まる」とは、観客が目の前のコンテキスト操作に集中しやすい環境へ移行すること、と考えることもできる。
笑っているとき、頭の中では何が動いているのか
ここまで挙げてきたものは、かなり違う種類の笑いである。
あるある。
漫才。
内村光良。
世界のナベアツ。
バカリズム。
大喜利。
一発ギャグ。
アンジャッシュ。
落語。
「笑ってはいけない」。
それでも、観客の側を見ると似たようなことが起きているように見える。
共有されたコンテキストから外れる。
突拍子もないコンテキストを新しく学習する。
一度覚えたコンテキストを更新する。
遠く離れたコンテキスト同士をつなぐ。
誰が何を知っているのかを把握する。
過去に覚えたものを呼び戻す。
その場の空気まで取り込む。
もしかするとユーモアとは、
文化的に共有されている、あるいはその場で共有されたコンテキストを、観客側が頭の中で能動的に操作することで笑いにつながるもの
なのではないだろうか。
もちろん、すべてのユーモアがこの考え方だけで説明できるとは限らない。
ただ、「なぜ今ので笑ったのだろう」と考えるとき、
何が面白かったのか、ではなく、
自分の中のどのコンテキストが、どう動いたのか。
そう考えてみると、かなり違った種類の笑いが、同じ地図の上に並んで見えてくる。
だからなんだって話なんだけど。

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