阿部寛さんのホームページを見た。
淡い色の背景に、青い下線の引かれたリンク。ページの左側にはメニューが縦に並び、画面中央には枠線で区切られた出演歴が表示されている。
ミレニアムの香りがする。
ところが、その出演歴の一番上に書かれているのは、
2026年7月
「日曜劇場『VIVANT』続編」
である。
2000年前後のWebデザインに、2026年の最新情報が掲載されている。
見ているうちに、時代の感覚がどこか希薄になってきた。
こういう現象には、何か名前があるのだろうか。
メディア・アナクロニズム?
調べてみると、近い概念として「メディア・アナクロニズム」という言葉が出てきた。
アナクロニズムとは、異なる時代に属する人物や物事が同じ場所に現れる「時代錯誤」のことだ。
なるほど、定義としては近い。
1990年代から2000年代初頭を思わせるWebサイトに、2026年の情報が載っている。媒体の年代と、そこに収められた情報の年代が一致していない。
しかし、何かが違う。
「時代錯誤」という日本語には、時代遅れ、不適切、取り残されている、といった否定的な響きがある。
阿部寛さんのホームページから受ける印象は、それとは少し異なる。
たしかにデザインは古い。
しかし、阿部寛さんの出演情報を確認するという目的は、現在も十分に果たしている。作品名をクリックすれば必要な情報へ移動できるし、表示も速い。
むしろ速すぎる。
阿部寛さんのホームページは、その表示速度の速さでも知られている。あまりに速いため、どれだけ遅く表示できるかを競う「逆RTA」まで行われているらしい。
最新のWebサイトが高解像度の画像や動画、アニメーションなどを積み上げて重くなっていく一方、旧式の構成を保つ阿部寛さんのホームページは軽い。
古いことが、部分的には長所にさえなっている。
古びていないのではない。
古びているが、用は済んでいない。
「現用旧式」と呼んではどうだろう
そこで、こう呼んではどうだろう。
現用旧式(Current Old Model)
社会一般には旧式とみなされる形式や技術でありながら、保存物や復刻物ではなく、現在も本来の用途で使われているもの。
「現用」と「旧式」は、反対の言葉のように見える。
しかし、指しているものが違う。
「旧式」は形式についての評価であり、「現用」は運用状態についての記述である。
型式としては古い。
しかし、運用上は現役である。
だから、この二つは両立する。
古い蒸気機関車を博物館で保存しているだけなら、現用旧式ではない。イベントのために一時的に動かす保存運転とも少し違う。
今日も通常のダイヤに組み込まれ、乗客を運んでいるなら現用旧式である。
昔の竪穴式住居を史跡として復元しただけなら、現用旧式ではない。
大昔から一度も途切れることなく人が住み続け、現在は室内にWi-Fiまで通っているなら、これはかなり立派な現用旧式である。
貝塚を発掘しているのではなく、今朝食べたアサリの殻も同じ場所に捨てられている。そんな貝塚があれば、それも該当するだろう。
重要なのは、昔の様式を現代人が再現したのではないことだ。
保存されているのでもない。
復活したのでもない。
ずっと使っていたら、そのまま現在に到達してしまった。
なぜ現用であり続けるのか
現用旧式という言葉自体には、肯定的な意味も否定的な意味も含まれない。
古いものが現在も使われている理由は、それぞれ異なる。
阿部寛さんのホームページは、現在の用途にも十分だから残っているのだろう。さらに、旧式の構成がもたらす軽さは、現代のWeb環境において独自のメリットになっている。
一方、企業のレガシーコードや古い基幹システムも、現用旧式に含められる。
こちらは単に事足りているだけとは限らない。
新しいシステムへ移行する費用が高い。周辺の設備が古い仕様に依存している。仕組みを理解している人がいないので、下手に触ると何が起きるか分からない。
変える必要がないから残っているものもあれば、変えたいのに変えられないものもある。
また現用旧式は、旧式のものを苦労して使い続けることのみを意味するものでもない。
ヴィンテージバイクを走らせるように、経年劣化や性能上の不利を乗り手の技術で補う場合もある。
しかし、阿部寛さんのホームページには、そのような格闘の気配すらない。
旧式であることに困りながら運用されているのではなく、困っていないから運用が続いている。
現用旧式とは、古さを克服する物語ではない。
古さが問題にならないまま、現在も用を果たしている状態まで含む。
このように、伝統として意識的に継承されているものもあれば、誰も見直さないまま惰性で続いている制度や慣習もある。
すべてを「古き良きもの」として称賛する必要はない。反対に、旧式であるという理由だけで否定する必要もない。
現用旧式という言葉は、まずその状態だけを捉える。
これは古い。
しかし、現在も使われている。
では、なぜ使われ続けているのか。
十分だからか。
優れている部分があるからか。
交換する費用が高いからか。
ほかの何かが依存しているからか。
それとも、誰も疑問を持たなかったからか。
その理由を考えるのは、それからでいい。
Web遺産ではない
阿部寛さんのホームページを「Web遺産」と呼びたくなる気持ちは分かる。
しかし、遺産という言葉を使うと、すでに役目を終えたものを文化的価値によって保存しているようにも聞こえる。
阿部寛さんのホームページは、そうではない。
過去のWebデザインを後世へ伝えるために保存されているわけではない。阿部寛さんの最新の出演情報を伝えるため、今日も普通に働いている。
時代に抗っているわけでもない。
新しくなる必要がないまま、時代のほうが先へ進んでいった。
その結果、ミレニアムを感じさせるページに『VIVANT』続編の情報が並び、私たちは一瞬、いまが何年なのか分からなくなる。
古い。しかし、現役である。
阿部寛さんのホームページは、Web遺産ではない。
これは「現用旧式」である。
もはや「阿部寛のホームページ」こそが概念では?
ここまで、ずいぶん真面目に考えてきた。
メディア・アナクロニズムでは否定的すぎる。リビング・ヘリテージでは、文化遺産として意識的に継承されている印象が強い。レガシーシステムでは、更新したくてもできない技術的負債のように聞こえる。
そこで、価値判断をできるだけ含まない言葉として「現用旧式」を考えた。
旧式でありながら、現在も本来の用途で使われているもの。
我ながら、それなりにうまく整理できたと思う。
しかし。
ここまで論じておいてなんだが、「阿部寛のホームページ」自体も、もはや一つの概念として扱ってもいいのではないだろうか。
たとえば、古い形式のまま現在も問題なく使われているものを見つけたとき、
これは阿部寛のホームページである。
と言う。
最新ではない。
しかし、用は足りている。
古さを保存するために残されているのでもなければ、経年劣化や性能上の不利を苦労して補っているわけでもない。
ただ、変える必要がなかったため、現在もそのまま働いている。
そのうえ、単純さや軽さなど、旧式であることが思いがけない長所になっている場合もある。
そうした現用旧式の一類型を、「阿部寛のホームページ」と呼ぶのである。
「この業務用ソフト、見た目はWindows 98みたいだけど、軽いし必要な機能は全部あるな」
「阿部寛のホームページですね」
「この食堂、注文は食券ですらなく厚紙の札だけど、何の問題もなく回っているな」
「これも阿部寛のホームページです」
もちろん、すべての現用旧式が阿部寛のホームページに該当するわけではない。
故障を繰り返しながら修理される古い機械や、移行したくても依存関係が複雑すぎて手をつけられないレガシーコードには、旧式であることによる明確な負担がある。
阿部寛のホームページには、そうした悲壮感がない。
古さと格闘しているのではない。
古いままで、特に困っていない。
したがって、次のように整理できる。
阿部寛のホームページ
現用旧式のうち、旧式であることが重大な支障にならず、現在も本来の用途を十分に果たしているもの。特に、その単純さや軽量さが現在においても利点となっているもの。
すべての阿部寛のホームページは現用旧式である。
しかし、すべての現用旧式が阿部寛のホームページであるとは限らない。
そして、この概念の記念すべき第一号が、阿部寛のホームページである。
だからなんだって話だけど。

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